ピペッタの論文メモ

論文のメモを書き散らす

どうして今ブログか

 

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こんなことは、決して自分で言うことではない。だけど、僕は文章を書くことにかなり自信がある。小さな時から、多くの文を読み、書いていたからだ。

 

そのきっかけは、小学生の時の進研ゼミの作文講座。「文章力は一生ものだから」という親のお節介からだった。赤ペン先生の宿題は、先生との文通のようだった。それが楽しくて、文を書くことがやみつきになった。書くことに並行して、「読む」ことにも興味が出始めた。文学少年の始まりである。

 

それからというもの、作文で受賞することが多くなった。小6の時には、読書感想文で優秀賞に選ばれ、中学生で「税の作文コンクール」で全国税理士会の賞を頂いた。文を作るのが、得意だったのだ。ところが、高校に入ってから、文章を読んだり書いたりする機会がめっきりと減ってしまったのである。スマホを使い始めたからだ。スマホはすぐに欲しい情報が得られる。

 

それは便利なのだが、圧倒的に本を読む習慣がなくなってしまった。また、受験勉強や部活が忙しくなったのも理由かもしれない。圧倒的に、読書する時間がない。結局、文章から離れることになってしまった。

 

転機は大学2年である。大学に入って、再び書く機会が増えてきた。特に多いのは、泣く子も黙る、「教育方法論」のレポートだ。ここでこんな話をしても仕方ないのだが、教育方法論の課題は大変だった。週に1回の小課題、およそ原稿用紙2枚分。それに合わせて、2~3週に1回の中課題、ざっと原稿用紙3枚分。最後に大課題、自分なりの授業計画を立てる。これがだいたい、原稿用紙7枚分。小・中・大課題を1つでもサボると単位がもらえない。なんと、これで1科目2単位だけなんて。

 

この際だから言おう。はっきり言って鬼だった。

 

でも、いい課題を書けば、優秀作品として選ばれる。これが、やる気の源だった。だからできるだけ、良いものを書こうとした。文章を書くのが、楽しくて、楽しくて仕方がなかったような、昔の自分のようだった。

 

頭の中のもやもやが、1つの文として変換されていく。まるで、ふわふわした綿から、丈夫な糸を紡いでいくように。ときどき糸がぷつんと切れたり、材料の綿がなくなったりすることがある。けれども、その度ごとに糸を結んだり、綿を次へ次へと継ぎ足したり。これがなんとも心地良いのである。

 

そうして、前期が終わった。教育方法論の悪夢からめざめた。最後までやり切った、という達成感とともに、なんとなく寂しい感じ。もう少し文章を書き続けてもいいんじゃないか。

 

そうだ。

ブログ、始めてみるか。

 

そうして今日も、電車でゆらりゆらりと揺られながら、キーボードをカタリカタリと打つのである。